思うからあるとは限らない

また頭がおかしい記事を書く
理由は何となく





デカルト「我思う、故に我あり!(キリッ)」

俺「じゃあさ、1時間くらい瞑想して思考を止めた状態を維持したら、その『我』はどうなってるの?1時間の間、消滅してるの?そんな簡単に出たり消えたりする目にも見えない不確定なものが本当に存在して、『自分』だって言い切れるの?」


原始仏教はちゃんとこういうところまで考えて、「自分は存在しない。ただの幻よ」と結論を出している
「我が思ってる→我は存在する」が成立するのに、「リンゴが見える→でもリンゴは存在するとは限らない」が成立する論拠もいまいち分からんし



ただ、あの時代で「神」の存在を疑ってかかれたデカルトは賢人だったと思う
毒矢のたとえ、怪力乱神を語らず、無知の知…


仏陀も孔子も「人知を超えた分かりようもないことをあれこれ考えるな。そんな暇があったら修行(修学)せい」ってスタンスだった
ソクラテスは知らん(真顔)



不可知論主義ってわけではないが、「人間は賢いから、分からないものがなくなる状態がいつか来る」と考えるのは傲慢なこと
その前に「この世界には人間には知りえるものしか存在しない」と証明するのが先

でもこれも簡単に論破できる
よくある問いかけに「誰もいないところで木が倒れました。その時、音はしましたか?」というものがある


誰もその場にいなかったんだから、「音がしたかどうか分からない」が正しい答え
それでも「木が倒れたら音がするに決まってるだろ!だって木が倒れてるのに音がしないのはおかしい!」と常識的な解答をする人が一般的

それはただの推測や憶測の類であって、「真実」や「真理」ではないのにだ



仏陀や孔子が同じ質問をされたら、「んなこと、気にするな」と答えるだろう
木が倒れて音がすると証明できてもできなくても、意味がないのだから






冒頭の話に戻るけど、「思考してるから自分はいる」というのは乱暴な話の展開である
本当に自分ならちゃんとコントロールできるはず


愛する自分の娘が車にひかれて、病院で生死の境をさまよってる時
「もし娘が死んだらどうしよう」という不安な考えを止められる人はそういない

嫌なことがあっても、いつまで経ってもくよくよと引きずることもない
「嫌なことがあったけど、次行こ次!」と切り替えられる人はそういない


そんなんだったら、まだ「右腕を上げる」という行動のほうが自分の思い通りにできる
思い通りにならない自分の思考より、思い通りに動かせる自分の右腕のほうが「自分」と言えるのではないのかね?



「いやいや!思い通りになるならないじゃなくて、『考えてる何かを実感している』んだから、自分はいるんだよ!」と思う人がいるかもしれない

それでも「じゃあさ、その『考えてる何か』を自分だと客観的に実感できているのは誰なの?」となる
「考えている何か」と「実感する存在」が同じ場合、それは主観的な意見でしかありえない
「俺の実感の結果、俺は頭がいいと判明した!だから俺は頭がいい!」って言ってるようなもの


そして「考えている何か」と「実感する存在」が別物なら、その「実感する存在」はいったい何?

それこそが「自分」じゃないの?
自分でないなら、そんな訳も分からん存在の実感を信じちゃっていいの?



「考えているから自分はいる。考えている何かが自分なのだ」はただの思い込みよ
そう思いたいから、自我が存在すると認識してるだけ




何度かワンネスの話を書いた
「自分は全てで、全ては自分だ」と

でもその自分は「実在しない幻」でしかない
だから結局、「この世界の全ては幻であり、実在しない。それは自分も含めて」という結論しか出ない

だからワンネスは正しいし、ワンネスは誤り
スピリチュアルの観点だと、そういう答えになるんじゃないかな



矛盾しているようだけど、どの視点からかで答えは変わる

ある人は俺を頭がいいというが、ある人は愚か者だという
それはどちらも正しいし、正しくもない
その人がそう思ってるだけであって、それによって「俺」という存在が決定されるわけではない



そもそも「矛盾しているものは間違い」という視点そのものが間違いなのだよ
「正しいものとは矛盾しないもののことだ」って、どこの誰が数学的に、科学的に証明したわけ?

人間が勝手に「この世界は素晴らしい!なぜなら矛盾がないから!つまり矛盾があるってことは間違ってるってことだ!」と決めつけてるだけなのよ
矛盾があっていいじゃない

「あの人のことが好きだけど嫌い」とか、「やめたいけど繰り返す」とか、「怒りたくないけど怒る」とか
人間というのはそういった矛盾から逃れられないのだよ







そういや最近いろいろ調べてたけど、仏教の四向四果の最後の段階「阿羅漢果」は仏門に入らないと到達できないらしい
ほう?
ちなみに阿羅漢果の一つ前の「阿羅漢向」までは独学でも行けるらしい


前に「高度の魂、霊格の話」を書いた
でも、あれの人間状態での魂の最終段階でようやく「仏教の一番低い悟りの状態」でしかない
まあ「悟りの段階」と表現すると、語弊があるけれど


目標→到達点

預流向→預流果
一来向→一来果
不還向→不還果
阿羅漢向→阿羅漢果

「自分が存在しないと理解しよう!」と頑張るのが預流向で、「自分が存在しないと理解できた!」に至った段階が預流果
そんな感じでいろいろな段階がある




一番低い悟りの「預流果」ですら、まず「自分は存在しないんだ!」が分かっていないといけない
「分かる」といっても知識ではなく、体験や理解といった形で

そこでようやくスタートライン
涅槃寂静への道は長く険しいのだ



俺個人は不還果なりかけの不還向ってところ
どちらにせよ、俺に「来世」はない

あるとしても、それは人間界じゃなくて天界
まあ功徳尽きて、また戻ってくるかもだけど(笑)

アイル・ビー・バック…(´・ω・`)b




まあ仏陀が35歳で悟りきったことを考えれば、まだ29歳の俺はこんなもんだろう
年齢の問題ではないけれど(笑)
多分来年には不還果になってるんじゃね(適当)


でも阿羅漢果にはなれる気がしれん
何も持たず、ボロ衣だけまとって、何もしないで、ひたすら座禅をするような生活をしないといけない
ぼくにはとてもできない



でもそんなことを言いながら、全く想像できないわけじゃないのが怖い
子供の頃の夢はホームレスだったし(笑)
親に「バカなことを言いなさんな!」と何度怒られたことかw

半年後、そこにはホームレスと化した蒼夜の姿が!





そういや霊格とかの話で、「こんな話をする人は、そんなに来世とか信じたいのかね?よっぽど今の人生をリセットしたいんだな」みたいな意見があったけど、それは違う
むしろ霊格とやらが高まるほど「もう生まれたくないナリー!」ってなる

だから仏教は輪廻転生から外れる「涅槃寂静」を目標にしているわけで
むしろ霊格が高い人が来世を説くのは、霊格が低い人に対して「死は怖くないよ。大丈夫だよ」と諭すのが目的な部分がある


でも霊格が低いから「そうか来世があるのか!じゃあリセットぽちー!」と自殺を早まることもある
人によっては来世を知らない方がいいこともある





上の方で「阿羅漢果になるには仏門に入る必要がある」と書いた
俺の子供の頃の夢は「お坊さん」だった
子供の夢はころころ変わるものよ(適当)

でも「サッカー選手」とか「社長」とか「ユーチューバー」とか言わない辺り、ガキの頃からいろいろと他の子とズレていた
そんな変わり者

普通の子供は「お坊さん」とか「ホームレス」とか言わない(真顔)





しかし今の俺はお坊さんになろうとは思わない
というのも、今の日本の仏教はそんなに好きじゃないから



原始仏教「悟りを開いて苦しい生から解き放たれよう!」←分かる

大乗仏教「悟りを開いて自分だけ助かるなんて自己中過ぎる!自分以外の他人も助けてこそ、慈悲深い『本当の仏』だ!」←まあ分かる

現代仏教「大乗仏教の仏様が助けてくれるから、俺らは何もしないでだらだらしとけばええわ。『仏様万歳!(南無阿弥陀仏)』とか言って、毎日おだてとけばええやろ」←ファッ?!


もぉマジムリ…
ホームレスになろ…

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便乗仏教

>>MURさん
うまいwww
ぜひ、これをどうぞ(´・ω・)つ【座布団】
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