真理は文字にしなくていい

先日書いた、魂と輪廻の発展みたいなお話
別に読まなくても意味は分かると思うけど
てかこの記事自体、読む意味はない(断言)

仏教は輪廻転生を認めていて、キリスト教は否定している
それが一般常識だし、今主流の宗教団体も同じ見解
だけども俺はこの認識に疑問を感じている

仏教は世間で言うような「悪いことをしたら悪い輪廻をするもの」ではないし、その考えは釈迦本人が否定している
キリスト教は輪廻を否定しているが、聖書そのものが否定しているわけではなく、輪廻転生に触れていないだけ
俺はそう考えている


まあ正確にはキリスト教は「輪廻転生に関する話を、昔ごっそりと教会が削った」って話があるんだけどね
西暦553年、コンスタンチノーブルで開かれた宗教会議で輪廻転生に関する記述を聖書から削除するって決議があったらしい
俺はその時期に生まれていないから本当かは知らないけど


現に新約聖書のヨハネによる福音書の第3章にある、ニコデモとの会話で輪廻転生についてイエスが語っていると思われる箇所がある



イエスは「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言い、「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない」とも言っている

これは仏教でいう解脱と同じ話
仏教では輪廻転生の枠から離れなければ、梵天界(天界)に行くことが出来ない
とは言っても仏教の世界では、イエスのように天界の存在が人として生まれることも珍しくないとしているがね

そういう存在は仏教では「一来向」というランクに振り分けられている
「これからはずっと天界で過ごすよ」って存在は「不還果」のランク



…正直いうと、「ランク」という言葉は使いたくないんだけどね
ランクが上とか書くと「一来向よりも不還果の方が上だから、不還果の方が偉い人!」って思われそうだから

天界にはランク、もとい階級なんてないのにね
てかそもそもそういうものも現実世界には本当は存在しないのに、我々が「ある」と錯覚してしまっているだけのもの
人は本来全て平等で、全てが神に愛されているのだから



キリスト教では「天界に行く」のが目的なのに対して、仏教はさらにその先を目指す
「天界すら諸行無常で、苦しみの世界だ」と考えていて、そこからの解脱もある

だからイエスは天界に存在しているけど、釈迦はもうどこにも存在しない
でもそれで釈迦がイエスよりも格上だとか、そんな陳腐なものでは決してない



話を戻してキリスト教と輪廻転生
ヨハネの福音書9章に盲人の話がある

弟子がイエスに向かって「先生、この人が生まれつき盲人なのは誰かが罪を犯したためですか?本人ですか?それともその両親ですか?」と質問している
輪廻転生が前提にないと「生まれる前に罪を犯す」なんて発想はまず出てこない

もちろんこの「生まれる前の罪」とは原罪のことではない
だってもし原罪が原因なら、人は皆生まれながらにして盲人になることを宿命づけられることになるのだから

そしてイエスは輪廻転生の発想をとがめることもなくスルーして、「神の御業が、彼の上に現れるためである」と答えている
イエスの教え(「キリスト教」ではない)の中では輪廻転生は禁忌ではなかったことがうかがえる


他にもマタイによる福音書第17章で「エリヤはすでにきたのだ。(略) そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。」とある
これも素直に読めば「エリヤとヨハネは同一人物である」となって、生まれ変わりを示唆しているとも取れる



でも教会はこういう考えを全て否定して、「輪廻転生は存在しない」という前提で話を進めている
だから素直に読めばいい聖書の箇所を、変な理屈をこねくり回して複雑怪奇なものとしているのだ
よりによって預言者でも何でもない教会が、だ


イエスが直接口にしているのならともかく、教会が言っても何の説得力もない
そもそも今伝わっているキリスト教自体、教祖はパウロであってイエスではない

俺はイエスの教えは好きだが、パウロは好かない
今でも有名な「働かざる者食うべからず」を言い出したのもパウロ

俺はそんなことは思わない
例え働かない人でも、飢えていればパンと魚を食べさせたい
太陽はどんな人も明るく照らすのと同じく、神の愛も平等だろうに



そもそもキリスト教で一番いびつだと思うのは「神の国に行くには聖書を読まなきゃダメ。読んで難しい勉強をしなきゃダメ。勉強した後は実践しないとダメ」と教えている点

中には「俺の両親は尊敬できる立派な人だった!聖書を読んだことがないという理由だけで地獄に行くというのなら、俺も地獄に行く!」と言う人も現れて、布教が進まないこともあった
そして「じゃあ、『煉獄』というものがあることにしましょ」とキリスト教の新しいルールを教会が作った

こんなことだから、俺はキリスト教を信用できないのだ



…あ、これじゃ「キリスト教は輪廻転生を否定しているわけではない」は間違いになるな

正しくは「キリスト教は輪廻転生を否定している。でもイエス本人は否定していない。ただしイエスが輪廻転生を積極的に肯定している箇所は現在の聖書では確認できないし、その記述が本当にあったかは不明」が正しいか




ここからは仏教の話
冒頭にも書いた通り、輪廻転生と言えば仏教のイメージが近い

でも「悪いことをしたら悪い来世になるよ!」って考えは否定している
これは先述した「目が見えないのは生まれる前に罪を犯したからですか?」とイエスが聞かれて、「ただ神の御業である」と答えたのと同じ理由



カースト制度では「お前の生まれが悪いのは、前世で悪いことをしたからだ!現世で苦しんで罪を清算して、来世で楽しい人生を送れ!」が絶対的に正しい前提で成立する
釈迦が全否定したのはこのカースト制度

仏教の最終目的は涅槃寂静であり、輪廻の輪から外れること
そのための手段は八正道として説明している


でだ、「幸せになるには苦しまないといけない」って考えは釈迦は絶対にしない
だって釈迦本人が苦行したにも関わらず、全く悟れなかったから

絶食したのに悟れなかった
「飯を抜く苦行じゃ足りないのか!じゃあもっと嫌な目に遭えばいいのか!」と自分の糞便まで食べた
極寒の日も雪の中、ひたすら苦行に勤しんだ

で、悟った
「ひたすら苦しい思いをしても、人は苦しみから逃れることはできない!」、と


釈迦は「来世のために、今苦しい思いをしている」って人を見たら見て見ぬふりが出来なかったんだと思う
過去の自分を見ているようで

だから仏教では「悪行が原因で現世では不幸になるという考えの、輪廻転生」は完全否定しているわけだ
でも先日書いた記事にある通り、輪廻転生のイメージは実際に経験してみると違うものだと思う

ま、その時は死んでいるんだけどね(真顔)




最後に一つ
キリスト教の箇所で「聖書を読まないとダメ。勉強しないとダメ。実践しないとダメ」と書いた

現にイエスも釈迦も本はおろか、一つの文字すら残さなかった
これは「自分たちが書いた本とか読んでも幸せになるわけじゃないし、後世は教えが捻じ曲げられるだろうから」と考えてのもの
実際、キリスト教も仏教も権力者に利用されていびつなものになってしまった


もし幸せになる方法に聖書や経典が必須だとしたら、イエスも釈迦も本の1冊は残していただろう
釈迦は王子で教養があったから、文字の読み書きくらいは当然出来る

イエスは旧約聖書の内容を知っていることから、文字は読めたはず
もし文字が書けなかったとしても、生前弟子に直接指示して書かせてもよかったはず


俺が思うに、「これが正しい教えです」と言って本を読ませる宗教にろくなものがないと思う
同じようにスピリチュアル系でも、講演をDVDや書籍にする人もあまり信用できない

面白いことを言ってることがあるから、たまには目を通すこともあるけど



…ん?
このブログはどうなのかって?

いつからこのブログに真実があると錯覚していた…?


俺はいつだって頭に浮かんだ、思ったことしか書いてないぞ、うん
だから最初に「この記事自体、読む意味はない(断言)」と言っておろう

俺は宗教家でもなければスピリチュアルカウンセラーでもないんでね
どうでもいい話をだらだらと書くだけさ

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キリスト教は、色々な宗派がある上に、同じ宗派でも国によって微妙に雰囲気が違うので、語りにくいですね…(〃´▽`〃;A(汗)☆゜*+。

「神の国に行くには聖書を読まなきゃダメ。読んで難しい勉強をしなきゃダメ。勉強した後は云々…」←これはカトリック的じゃなくて、比較的新しい、プロテスタント的な意見です。プロテスタントは他にも聖人像を教会に置いちゃダメとか、聖母(マリア)をあがめるのを禁止したり、教会にステンドグラスとかの豪華な装飾をほどこすのを否定したりと、色々とカトリックのやりかたを否定しています。

でも、最初からプロテスタントのやりかたで布教していたら、信者は増えず、キリスト教は現在まで生き残れなかっただろうと思います…。

キリスト教は最初はカトリックしか無くて、当時主流だったユダヤ教(知識人で仕事も教養もある)から排斥された、無学・貧乏な外国人とかホームレスとか売春婦とか犯罪者とかを救う宗教として誕生し、長い間ずっと、字も読めないような信者が支えてきた宗教です。

カトリックのゴシック建築が何故あんなに豪華なのかって、どんなにボロボロでも入れてもらえる豪邸みたいなもので、だからこそ信者を救えたからです。

聖書を渡してはい勉強してねじゃなくて…カトリックのゴシック大聖堂みたいに、文字読めない人にはステンドグラスの絵を指さして道徳と愛を説明し、他宗教の像も教会の装飾としてつけてみたり、母像(マリア像)を置くことで他宗教の人でも祈れるスペースを作り…そういう「寛容さ」こそがカトリック…つまりもともとのキリスト教だったはず。

キリスト教の宗派間の摩擦を避けるため、教えを統一しなきゃいけない部分はあるにしても…文字が読める知識人だけの宗教に変えていってしまうのは残念だと思います。(∩´ω`゜c)

>>さゆさん
たしかに一言で「キリスト教」と言ってもいろんなカトリックやプロテスタントを始め、様々な宗派がありますよね(。-`ω-)
キリスト教の定義を「イエスキリストを預言者と認める宗教」とするなら、イスラム教も一種のキリスト教と言えなくもないし…


たしかに「聖書を自分で読み、深く探求し、そして実践する」といった性格が強いのはカトリックよりもプロテスタントだと俺も思います
でもプロテスタントだろうとカトリックだろうと「真理は聖書にある」とするのはどちらも同じだと俺は思っているんです

もちろんカトリックがしたように聖書が読めない人にも布教していることもあったと思います
しかしそれも聖書を読めない人に代わりに聖書を読んであげているようなもので、結局は「聖書を読み、勉強し、実践する」の精神と変わらないものでしょう


カトリックは長い月日が経つにつれ、文字が読めない人が多いことをいいことに、聖書にないことをさもあるかのようにカトリックが語り出して世間を惑わせ始めました
プロテスタントが生まれた決定打はたしかカトリック教会による免罪符の販売だったような…
だからその自衛としてプロテスタントは「教会に騙されないように聖書は自分で読みなさい」と言い出したのです


カトリックだろうとプロテスタントだろうと「救われるには聖書の内容が大前提」という精神なのは変わらないのです
俺が記事中に書いた「神の国に行くには聖書を読まなきゃダメ。読んで難しい勉強をしなきゃダメ。勉強した後は実践しないとダメ」とはその文字通りのことではなく、「聖書の内容を知らない人は救われないよ」と語っていたこと、もとい脅していることに対する批判です

「神は愛だから、聖書のことを知らない人もちゃんと救ってくれるんだよ。大丈夫だよ」と俺は言いたかったんです
分かりにくかったならごめんなさい(´・ω・`)



イエスが弟子や民衆に説法をする時、旧約聖書の言葉をただ単になぞらえたことはありませんでした
もちろんイエスが預言者だったからという側面もあるでしょうが、多少引用した箇所はあった気がしますが「聖書にこうあるからこうしなさい」「聖書にこうあるからそれはやめなさい」と教えた箇所はなかったような気がします

それは幸福とは聖書を前提としたものではないからです
神の国は教会や聖書ではなく、その人の心の中にあるのです

俺はそう考えています(ノ)・ω・(ヾ)



文字が読める読めないなんて、些細なことだと俺は思うんですよね
我々だって古代ヘブライ語もコイネーギリシャ語も読めませんが、訳されたものを通じて聖書を読むことが出来ますし(。-`ω-)

もし聖書に興味があるのに文字が一切読めない人が俺の目の前にいたら、クリスチャンじゃないのに聖書を音読するくらいはしますから何の心配もいらないですよ(`・ω・´)
場合によっては録音する必要があるかもしれないけど(笑)
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